三菱地所の歩みOVER 100 YEARS HISTORY

三菱地所の歩みのイメージ

「丸の内」と聞くと、多くの人が大企業が集まったオフィス街をイメージする一方で、時代の最先端に挑む革新的な街を想像する人がいるかもしれません。また、有名店が立ち並ぶ洗練されたスポットという印象や、外国人の多さにグローバルに開かれた街という印象を持つ人もいるでしょう。

しかし120年前、ここは荒涼とした荒れ野原であり、このような発展を遂げることを想像した人は、誰もいませんでした。ごく少数を除いては。

「日本には経済発展を支えるビジネスセンターが必要だ。ここにそれをつくる」。先人たちの熱い決意と覚悟がこの地に注がれ、思いを現実へと動かしていったのです。そして今も、先人から受け継がれた想いこそが原動力となり、私たち三菱地所は、新しい丸の内、新しい日本へと、挑み続けているのです。

HISTORY 01
維新から明治後半 : 荒れ野原「三菱が原」を「一丁倫敦」に開拓。

誰も価値を見出せなかった丸の内。

江戸時代、現在の丸の内一帯には大名屋敷が建ち並んでいましたが、明治維新以降は陸軍の軍用地として使われるようになりました。1880年代中盤に入り、欧米列強の東アジア進出が激化する中、危機感と焦りを抱いた明治政府は軍備の拡張を図るため、軍部を移転することを決定。移転のための莫大な費用は、丸の内一体を払い下げることで捻出することにしたのです。しかし、当時このエリアは、草が伸び放題の荒れ地だったうえ、皇居近くという場所のため建築認可基準が厳しく、だれも価値を見出せない場所だったのです。なかなか買い手が見つからなかった政府が話を持ちかけたのが、当時の三菱社社長の岩崎彌之助でした。その頃、岩崎彌之助が重用していた荘田平五郎は、造船業界などの実情視察のために英国に滞在していました。先進的なロンドンの街並みを見て衝撃を受けた平五郎は、日本にも西洋式のビジネス街が不可欠だと痛感していました。
そんな折に、陸軍が丸の内を売りに出したことを知り、即座に「買い取らるべし」の電報を彌之助に送ったのです。皇居のすぐそばに広がる丸の内こそが、日本のビジネス街にふさわしい場所だと直感したのかもしれません。平五郎の思いを受け止めた彌之助は、1890(明治23)年に丸の内一帯を買い受けました。価格は128万円。当時の東京市の年度予算の3倍にものぼり、まわりからは無謀と揶揄される決断でした。軍の施設が次々に移転していくなかで丸の内はスカスカの原野となっていき、一帯は「三菱が原」と呼ばれるようになります。

明治政府からの払下げ対象土地の地図
: 明治政府からの払下げ対象土地
岩崎彌之助と荘田平五郎の写真
岩崎彌之助(左)と荘田平五郎(右)

この地を日本のビジネスセンターに。

このような状況のなか1894(明治27)年、重厚な東京府庁が完成し、さらに西洋風の外観を持つ煉瓦造りの三菱1号館が建造されました。三菱1号館は会社や銀行が入居した日本初のオフィスビルです。日露戦争が勃発した1904(明治37)年においても、丸の内の交通機関は日比谷と大手町を結ぶ路面電車だけで、交通の便の悪さはなかなか解消されません。当然三菱以外、丸の内を開発しようとする企業は現れません。それでも三菱は「ここを日本のビジネス街にする」との夢に向かい淡々と開発を進め、1911(明治44)年までに13棟ものビルを建設しました。赤レンガ造りの建物が並ぶこのエリアは、街区がちょうど100メートル(1丁)だったことから、「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれ、注目を集めるようになったのです。
しかし、当時は貸事務所というビジネスモデルが浸透していなかったために、事業としては苦戦。社内では住宅を建てるべきという意見も出ましたが、「三菱はここを模範街にする責任がある。何をしようと金を儲ければいいというような考え方は誤りである」との信念が貫かれたのです。

三菱1号館(1894年竣工)の写真
三菱1号館(1894年竣工)
「一丁倫敦(ロンドン)」の時代の写真
「一丁倫敦(ロンドン)」の時代

HISTORY 02
大正から戦後 : 戦争によっても、未来への思いは壊れない。

時代を越えた象徴「丸ビル」が誕生。

時代が明治から大正に変わると、東京駅開業をはじめとする交通インフラの拡充もあり、丸の内のオフィス需要は急速に高まりました。そこで当時最大規模を誇る『丸ノ内ビルヂング』(以下、丸ビル)の建設が進められたのです。各フロアをつなぐ急行エレベーターを導入し、日本で初めてビル内を自由に通り抜けできるショッピングモールをオフィスビルにつくるなど、『丸ビル』は時代の先端を象徴するビルとして誕生しました。また、より近代的で機能的なオフィスビルが求められるようになり、装飾性を重視した欧州式から、実用重視のアメリカ式が採用されるようになったのもこの時代の特徴です。『丸ビル』完成後のアメリカ式のビルが並んだ一帯は「一丁紐育(ニューヨーク)」と呼ばれ、新しい東京を象徴する街並みとして話題を集め、日本のオフィス街の代表としての「丸の内」が認知されるようになったのです。なお、『丸ビル』の開業から約半年後、関東地方は未曽有の大震災に見舞われましたが、三菱グループのビルには大きな被害が出ませんでした。さらには被災者の避難所としてビルを開放するなど、臨時対応に貢献。震災後の丸の内は、より多くの企業から注目を浴びるようになったのです。

丸ビル(1923年竣工)の写真
丸ビル(1923年竣工)

太平洋戦争がもたらした苦難。

日本政府が近代化を急速に進める押し進める中で、オフィス需要はその後も伸び、建設ラッシュが続きました。1937(昭和12)年には、三菱合資会社(1893年設立)から同社建築課の業務一切を引き継ぐ形で三菱地所が分離独立しましたが、その後、時代の流れは急展開します。アメリカとの戦争が現実味を帯びてきた1941(昭和16年)年8月に金属回収令が出され、12月に太平洋戦争が勃発。ビル内の窓枠や手すり、ドアノブにいたるまで金属部品はすべて徴収されてしまい、もちろんビルの新築には着手できない状態が続いたのです。1945(昭和20)年に日本の無条件降伏が決まると、占領統治で丸の内のビルの多くは連合軍によって接収されてしまいました。また、三菱本社から三菱地所へ譲渡されるはずだった丸の内一帯の土地建物は、財閥解体にともなって新たに建設された不動産会社2社へと分散。三菱地所の所有不動産は戦前に譲渡が済んでいたごく一部になってしまったのです。

現在の新丸ビルの場所にあった貯水池の写真
現在の新丸ビルの場所にあった貯水池
東京大空襲を受けた当時の丸の内の風景
東京大空襲を受けた当時の丸の内の風景

新生・三菱地所が戦後復興へ踏み出す。

そんな苦境にあっても、三菱地所は新たな一歩を踏み出していました。基礎工事の段階で戦争により中断していた『新丸ノ内ビルヂング』の建設に着工。資金不足は、テナントから建設費を借り入れるという新たな調達法によって補い、1952(昭和27)年11月に完成を果たしたのです。向かいに建つ『丸ノ内ビルヂング』とともに丸の内エリアのシンボルとなりました。この年には、サンフランシスコ講和条約の発効によって日本は国際社会に復帰。三菱の商号や商標の使用も許される中で、財閥解体で分散していた3社の合併を実現。1953(昭和28)年、丸の内の発展、日本経済の発展に寄与するべく、街づくりを担う新生・三菱地所が誕生したのです。

新丸ビル(1952年竣工)の写真
新丸ビル(1952年竣工)

HISTORY 03
高度成長期から昭和後半 : 丸の内の経験を活かし様々な分野へ。

世界有数のビジネスセンターに改造

1950年代中盤、高度経済成長期に入ると丸の内ではオフィス需要が急増し、時代のニーズに応えるために1959(昭和34)年より「丸ノ内総合改造計画」が実施されました。「美しく均衡のとれた街」を目指し、約10年間で500億円もの投資を敢行。30棟の古い建物を壊し、それぞれの敷地をまとめて大きなブロックにし、13棟の大型ビルを次々に建設しました。1970年代前半には、丸の内は都市機能と都市環境美を兼ね備えた世界有数のビジネスセンターへと生まれ変わったのです。この時代、「丸ノ内総合改造計画」と並行して、東京駅の北側に広がる常盤橋地区や有楽町駅町地区の再開発にも取り組みました。そして、これらの大規模開発を無事に完了させた後には、ビル事業の対象エリアを拡大。赤坂や青山、三田などにも用地を求め、ビル開発を手がけていきました。

垂れ幕が掲げられた丸ビルの写真
東京オリンピックでは丸ビルに大きな垂れ幕が掲げられた

時代を拓く大規模プロジェクトに参画。

三菱地所は、丸の内開発の経験を活かし、日本のエポックメイキングとなる都市開発にも次々と取り組んでいきました。国家的プロジェクトであった豊島区の巣鴨プリズン跡地の再開発にも参画。オフィスや商業施設・ホテルとともに、水族館などのアミューズメント施設や劇場などの文化施設までも一体となった巨大な複合施設『サンシャインシティ』(1978年竣工)は、都市開発のパイオニア的存在となっています。また、オフィス棟の『サンシャイン60』は、240mという当時日本一の高さを実現しました。1980年代には、都市再開発プロジェクト「みなとみらい21」事業に、民間で最大の地権者として参画しています。1993(平成5)年にはみなとみらいのシンボルとなる『横浜ランドマークタワー』(地上296m)が竣工。「にぎわいのある24時間都市」を基本コンセプトに、ショッピングモール、オフィス、ホテルが縦に並ぶ日本初の垂直統合ビルとして話題を呼びました。

池袋サンシャイン60(1978年竣工)の写真
池袋サンシャイン60(1978年竣工)
都市再開発プロジェクト「みなとみらい21」の風景
都市再開発プロジェクト「みなとみらい21」

豊かな環境づくりを目指して、様々な事業へ進出。

高度成長期は、住宅産業も著しい成長を見せていたことから、三菱地所も住宅事業へ参入しました。1969(昭和44)年から首都圏各地でマンションの建設・分譲を手掛けるとともに、宅地分譲・建売住宅販売にも着手していきました。そして、今なお民間が単独で手掛けた開発プロジェクトとして日本最大級の規模を誇る『泉パークタウン』のプロジェクトが、仙台に近い高台で始まったのもこの頃です。東京都千代田区の広さに匹敵する広大なエリアに、「自然との共生」をコンセプトにした街づくりを実現。世帯数約9900、人口2万6000人を突破した街の開発は、今でも現在進行形で進められています。三菱地所は、他にも商業施設事業、レジャー関連事業、海外事業へと、さまざまな分野へと事業を拡大。「住む」「暮らす」「働く」「憩う」「楽しむ」という、人の営みすべてを支え、豊かにしていく環境づくりに貢献する総合デベロッパーを目標に、新たなチャレンジへと踏み出したのです。

仙台市にある泉パークタウンの写真
仙台市にある泉パークタウン

HISTORY 04
昭和から平成 : 街のイメージを一新した「丸の内再構築」。

ビジネス街から、もっと魅力ある街へ。

丸の内は、ビジネス街のトップブランドとして確固たる地位を築いてきましたが、1990年代に入ると汐留、品川、恵比寿などの近隣のエリアでも先進的なオフィスビルが次々に開発され、人の流れに変化が現れました。丸の内は施設の老朽化とともに、ビジネス工場のような殺風景な街というイメージに陥っていたのです。そこで三菱地所では、ビジネスオンリーの街からの脱却を図り、1998(平成10)年「丸の内再構築」に着手。「世界で最もインタラクションが活発な街」をコンセプトに、ここで働く人、外から訪れる人に楽しんでもらえる新しい都市機能の創造を目指したのです。そして、再構築のスタートに三菱地所が選んだのが、丸の内の象徴的存在である『丸ノ内ビルヂング』の建て替えです。高さ31mの風格ある佇まいの『丸ビル』は、2002(平成14)年に180mの超高層『丸の内ビルディング』として生まれ変わりました。最先端のオフィス機能を有しているのはもちろん、5フロアからなるショッピングゾーン、4フロアからなるレストランゾーン、さまざまな情報発信スペースとなるインタラクティブゾーンも設置。“丸の内スタイル”という新たな価値観を前面に打ち出した『新生・丸ビル』は、ビジネスマン以外の人々にも大きな話題となり、来訪者は開業からわずか1か月で280万人を突破したのです。

2002(平成14)年に建て替えられた新生・丸ビルの写真
2002(平成14)年に建て替えられた新生・丸ビル

土日にも人が集まる人気スポットに変身。

『丸ビル』の完成を皮切りに、『日本工業倶楽部会館・三菱UFJ信託銀行本店ビル』『丸の内オアゾ』『東京ビルディング』『新丸の内ビルディング』と次々に建て替えを実現。加えて、仲通りの歩道を6mから7mへ拡幅し、季節に合わせたイベントなども開催するようになりました。こうしてビジネスオンリーだった丸の内に、ショッピング、グルメ、カルチャー、エンターテインメントという新しい魅力が生まれ、施設がオープンするたびに厚みを増し、活気と賑わいのある空間へと変貌させました。そして2007(平成19)年の『ザ・ペニンシュラ東京』の竣工・オープンをもって、再構築の第1ステージが終了。『丸ビル』のオープン以前と比べ、店舗数と休日の歩行者数はそれぞれ約3倍にものぼり、「月曜から金曜の街」と呼ばれた丸の内エリアに、新たな人の流れや新たなビジネスの流れができあがっていったのです。

2007(平成19)年に建て替えられた新丸の内ビルディングの写真
2007(平成19)年に建て替えられた新丸の内ビルディング(右)
現在の丸の内・東京駅前の写真
現在の丸の内・東京駅前

HISTORY 05
現代 : 未来の始まりとしての 今を開拓する。

三菱一号館が美術館として復活。

丸の内再構築の更なる「拡がり」と「深まり」を目指した第2ステージは、これからの丸の内に求められる「歴史」「文化」「芸術」「憩い」を街にもたらすべく、『三菱一号館』を美術館として復活させ、敷地中心部に広場を設ける、『丸の内パークビル・三菱一号館』プロジェクトを皮切りにスタートしました。1894(明治27)年、丸の内に西洋式のオフィスビルとして初めて誕生した『三菱一号館』は、老朽化のために1968(昭和43)年に解体されましたが、40年あまりの時を経て、オリジナルの設計に則って同じ地によみがえることが決定したのです。明治期の設計図や解体時の実測図の精査に加え、各種文献、写真、保存部材などに関する詳細な調査を実施し、外見のみならず、構造や間取り、使用する建築素材にいたるまで、当時の姿を可能な限り忠実に復元。さらに、美術館としての機能を備えるために、温度や湿度の管理、照明設備のスペック、警備体制などについては最新のオフィスビル以上に厳しい要件をクリアしなければなりませんでした。そうして19世紀末に日本の近代化を象徴した『三菱一号館』は、2009年4月『三菱一号館美術館』として誕生。それは、遠い昔、荒れ野原のなかで三菱一号館の建設を推し進めた先人たちの熱い志の継承であり、文化・芸術に触れられる新しい丸の内に向かう取り組みでもあります。お弁当を広げる家族連れや、オフィスに戻る前に一休みするビジネスパーソン、楽しげに会話を交わす若者などで賑わう一号館広場。丸の内の魅力にさらなる拡がりと深まりが加わった瞬間でした。

2009年に美術館として復活した三菱一号館美術館の写真
2009年に美術館として復活した三菱一号館美術館

連鎖型再開発で大手町を再構築。

丸の内再構築第2ステージでは、丸の内の活気と賑わいを大手町、有楽町へと拡大し、国際金融拠点やインフラ整備などを通じて国際競争力の強化を推進することも目的のひとつです。しかし、丸の内や大手町にオフィスを構え事業を継続することが極めて重要な意味を持つ企業ばかりで、街の整備のために一時的とはいえエリア外への移転をお願いすることは、非常に困難を極めました。この課題を解決するために採ったのが、他に類を見ない連鎖型再開発という方法です。まず国有地の空き地に新しいビルを建て、そこに古いビルで事業を行っていた企業がまとめて移ります。次に、空いた古いビルを新しく建て直し、そこへまた別の古いビルで事業を行っていた企業に移ってもらうということを繰り返していく方法です。これなら企業は、エリア内で事業を継続していくことができます。この方法で、2012(平成24)年には『大手町フィナンシャルシティ』、2015(平成27)年『大手門タワー・JXビル』、2016(平成28)年『大手町フィナンシャルタワー グランキューブ』、『星のや東京』、2017(平成29)年『大手町パークビル』と次々に竣工していきました。もちろんオフィスだけでなく、商業施設やホテル、サービスアパートメントといった多様な施設の整備が進んでいます。また、2011(平成23)年の東日本大震災の教訓から防災に強い街づくりにも妥協することなく取り組み、BCP(事業継続計画)にもハード・ソフト両面にわたって街全体として対応、被災の影響を最小限にとどめ、いち早く通常業務に復帰できるような体制を整えています。そして連鎖型再開発は、東京駅の北側に位置する「東京駅前常盤橋プロジェクト」へと続き、2027年には、地上61階・高さ390mの日本一の超高層ビルが完成する計画です。

大手町フィナンシャルタワー グランキューブ(2016年竣工)の写真
大手町フィナンシャルタワー グランキューブ(2016年竣工)

創業の思いを受け継ぎ、時代の先を見通す。

三菱地所が丸の内に初めてビルを建設してから120年以上の歳月が流れ、時代とともに街の様相は大きく変化してきました。
しかし、そこに脈々と受け継がれているのは、無謀とも思われながら荒れ野原を開拓し、
日本を代表するビジネス街を築いていった先人たちの熱い思いです。
東京・丸の内が世界から選ばれる魅力的な街であり続けるために、三菱地所は、これからも時代の先を見通して、
真に求められる価値を創造していきます。