誰も価値を見出せなかった丸の内。
江戸時代、現在の丸の内一帯には大名屋敷が建ち並んでいましたが、明治維新以降は陸軍の軍用地として使われるようになりました。1880年代中盤に入り、欧米列強の東アジア進出が激化する中、危機感と焦りを抱いた明治政府は軍備の拡張を図るため、軍部を移転することを決定。移転のための莫大な費用は、丸の内一体を払い下げることで捻出することにしたのです。しかし、当時このエリアは、草が伸び放題の荒れ地だったうえ、皇居近くという場所のため建築認可基準が厳しく、だれも価値を見出せない場所だったのです。なかなか買い手が見つからなかった政府が話を持ちかけたのが、当時の三菱社社長の岩崎彌之助でした。その頃、岩崎彌之助が重用していた荘田平五郎は、造船業界などの実情視察のために英国に滞在していました。先進的なロンドンの街並みを見て衝撃を受けた平五郎は、日本にも西洋式のビジネス街が不可欠だと痛感していました。
そんな折に、陸軍が丸の内を売りに出したことを知り、即座に「買い取らるべし」の電報を彌之助に送ったのです。皇居のすぐそばに広がる丸の内こそが、日本のビジネス街にふさわしい場所だと直感したのかもしれません。平五郎の思いを受け止めた彌之助は、1890(明治23)年に丸の内一帯を買い受けました。価格は128万円。当時の東京市の年度予算の3倍にものぼり、まわりからは無謀と揶揄される決断でした。軍の施設が次々に移転していくなかで丸の内はスカスカの原野となっていき、一帯は「三菱が原」と呼ばれるようになります。