2018/04/09 岡本 哲志 氏 これまでの歩みを振り返り、常盤橋エリアのこれからを考える 第1回 常盤橋エリアの歴史をたどる

都市形成史家 岡本哲志都市建築研究所主宰

岡本 哲志 氏 

元法政大学デザイン工学部建築学科教授。博士(工学)。国内外の都市と水辺空間の調査・研究に長年携わる。近著に『江戸→TOKYOなりたちの教科書2』『川と堀割〝20の跡〟を辿る江戸東京歴史散歩』などがある。NHK総合テレビ『ブラタモリ』には、案内人として7回出演。

東京の都市形成史について、40年以上にわたりさまざまな角度から調査・研究を続けている岡本哲志氏。常盤橋エリアの歴史や果たしてきた役割、そして歴史・文化遺産を活かした都市開発の可能性などについて語っていただきました。

「常盤橋」のルーツとは?

「常盤橋」という名前の由来には諸説あり、よくわかっていません。寛永6(1629)年、常盤橋の前に常盤橋御門が設置され、その頃に「常盤橋」の名が登場したと考えられています。ただし、慶長9(1632)年の「寛永江戸図」には「大橋」の名が記されています。

江戸・東京は、多くの川や堀割(運河)が街中を流れる"水都"でした。常盤橋は、その面影を今に残す大切なエリアの一つといえます。

常盤橋の「橋」の歴史は、江戸開府よりも100年以上前、最初に江戸城を築いた太田道灌(1432-86年)の時代にまで遡ります。


その頃は、神田川が小石川後楽園あたりで右に折れ、南に下って平川と名を変え、和田倉の辺りで日比谷入江に注いでいました。

太田道灌は、江戸城に近い湊を維持・繁栄させるために、平川の河道を東側に大きく迂回させる大規模な付け替え工事をしました。その時、江戸城と浅草寺を結ぶ道と交差する場所に、新たに橋が架設されました。これが常盤橋の始まりです。

江戸時代、常盤橋周辺はどのような場所だったか

江戸時代、日本橋川にかかる常盤橋の西側(大手町)は大名の上屋敷が並び、東側(日本橋)は町人地でした。また、常盤橋の南、大手町と丸の内の間には、江戸時代初期に掘られた道三堀川がありました。日本橋川と和田倉門を結ぶこの堀割は、徳川家康が江戸で最初に造った堀割です。江戸城建設の際に重要な役割を担い、江戸初期には両岸に河岸が設けられ、全国から物資が集められました。

江戸城の正門に当たる大手御門の前に位置する大手町は、寛永期(1624-45年)までは、加賀藩前田家、津藩藤堂家など、外様の有力大名の上屋敷が半数を占めていました。その後、江戸城が拡張され、寛永9(1632)年〜寛永20(1643)年の間に、新たに江戸城三の丸が整備されました。それにより、それまで三の丸のあった場所に屋敷を構えていた、雅楽頭(うたのかみ)系酒井家といった幕政の中枢を担う譜代大名が屋敷を移動しなければならなくなります。また、明暦の大火(1657年)以降になると、前田家は筋違御門近くに一度移り、その後本郷にある現在の東京大学キャンパスに上屋敷を移します。その結果、大手町は譜代大名(酒井家、小笠原家など)、あるいは結城秀康(徳川家康の次男)を祖とする越前松平家の上屋敷へと変化していきます。また、道三堀川沿いの丸の内側には、評定所などの幕府施設も置かれていました。

上屋敷とは、大名とその家族が居住し、江戸における藩の政治的機構が置かれた場所です。なかでも大名が居住する屋敷は居屋敷とも呼ばれました。大名は在府中、定例の登城日や役職に定められた日など、江戸城に登城する必要があり、通常、江戸城に最も近い屋敷が上屋敷となりました。大名が江戸在府の際は、ここで政務を行い、大名が帰国した後は、江戸留守居役が留守を預かり、幕府や領地との連絡役を務めました。

上屋敷は、大きく御殿空間(ごてんくうかん)と詰人空間(つめにんくうかん)に分けられます。御殿空間は主の居室などの表御殿、正室の居室などの奥御殿や庭園などで構成され、詰人空間は家臣の住まいである長屋、藩の政務を行う施設や厩舎などで構成されました。

日本橋側には、文禄4(1595)年、現在日本銀行のある場所に金座が置かれます。慶長8(1603)年に五街道の起点として日本橋が架けられると、北東の橋詰に高札場(法度や掟書などを板札に記して掲げた場所)が立ち、橋のたもとから日本橋河岸沿いには魚河岸ができます。さらに、延宝元年(1673)には越後屋(後に三井銀行、三越)が出店します。こうして、日本橋界隈は大店が軒を連ねる江戸随一の商業地に発展していきます。文化2(1805)年に描かれた「熙代照覧(きだいしょうらん)」には、大通りの賑わう様子が絵巻として描かれています。

"水都"から、高速道路が走る近代国家へ

明治期になると、大手町には大蔵省、農商務省など官の施設が置かれます。道三堀川は明治43(1909)年に埋め立てられ、現在の永代通りが新たに整備されます。大正3(1914)年には東京駅が完成し、神田方面に線路が延伸します。道三堀川の東側とその周辺は街区が再編され、現在再開発が行われているエリアとなりました。一方、日本橋側は、関東大震災までは、表店の脇から路地に入るとしもた屋(商店ではない普通の家屋)があり、江戸時代からの庶民の生活が残っていました。

戦後、高度成長期に入る頃には、常盤橋の東南に架かる一石橋で日本橋川から分かれ、南に流れていた外堀川が埋め立てられ、鉄鋼ビルなどが建てられていきます。そして昭和30(1955)年代には、東京オリンピック開催に向けた渋滞緩和策として、日本橋川の上に首都高速道路が建設されます。ちなみに、高速道路が建設された用地の9割が堀割でした。その結果、江戸時代に築かれた堀割の多くが失われ、東京の都市景観は大きく変貌しました。

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